
基は、岩を掘って造った墓でしたが、父の代に改装を済ませて、新たな装いになりました。側に離婚した父の実母が入る墓を増設しました 島の思い出(石垣島、沖縄本島) )
地元紙の企画でタウン誌を月一回折り込みで跛行していますが、
その企画「昔たび」の取材を受けました。
久し振りに中学一年生の時、沖縄本島に2日がかりで90トンの木
造船で、旅したことを想い出し、記者との話は、尽きませんでし
たが、記事は一面半分くらいでした。
わたしは、台湾の基隆(キールン)で戦前、小学2年まで過ごし、
終戦一年後に、父の父母の生まれ島、石垣島に帰ってきました。
キールンやタイペイ(台北)とは打って変わり、静閑な田舎でし
た。宮古島までは大きな蒸気船での航海でしたが、宮古島から石
垣島までは、10トンばかりのぽんぽん船にすし詰めにされて、
一昼夜かけてたどり着きました。このときは、船酔いをしました
が、初めて沖縄本当に旅したとき、成長して17歳で海運会社に
勤めたときは、海がどんなに荒れても船酔いはしませんでした。
わたしの島、石垣島は、当時は本当に閑散としていて、住みよい
ところでした。両親は、戦後の食糧難を乗り切るのに、畑仕事を
一生懸命しておりましたが、その苦労がたたって、母は38歳で
亡くなりました。父子家庭になり、本当に爪に火をともすような
生活を強いられた記憶があります。
そんなとき、亡き母の姉たち(既に沖縄本島で安定した暮らしを
していた)が、わたしと直ぐ下の妹を沖縄本島見学に呼んでくれ
ましした。台北の賑わい(週に一回は台北の百貨店「菊本」に母と
通っていたので、人の多さとか、建物の様子)もすっかり忘れて
いて、道の大きさや、人の多さに驚いたものです。
そういえば、確か小学四年(戦後3年)頃、島に、初めて轟音を
とどろかせて、ジェット機が飛んできました。あまりにもすさま
じいい音に、全校生徒が運動場に出て、音の行方を追いました
が、その正体はつかめませんでした。後ほど、「あれはジェット
戦闘機という飛行機で、音より早く飛ぶので、音のするところを
確認しても飛行機は見えないよ」と先生(そのことを知っている
先生も少なかったと思う)に聞かされ、びっくりしました。天地
をひっくり返すような爆発音が、急激に迫り、頭上を通過して、
「キーン」という鋭利な音を残して消えていく、その体験は驚き
でした。戦時中、グラマンやカーチスヤB29が飛来しても、機
影は確認できました。
初めて、沖縄本島に旅したとき、道の大きさや人の多さに驚きの
目を見張ってましたが、わずか2週間ほどの旅の最中、小学校時
代に聞いたジェット機の轟音は、毎日のように頭上をかすめまし
た。その度に、戸外へ飛びだし、機影を探そうとしますたが、遂
に確認することが出来ませんでした。
どうしても、その音の正体を確認したい気持ちでした。幸い、い
とこ達が、嘉手納飛行場に連れて行ってくれました。始めて見る
機体のすごさに唖然としていた記憶があります。飛び立つとき二
つのジェットエンジンから火を噴き出していて、離陸時のスピー
ドにも驚愕したものです。
さて、2週間の旅を終え,帰島し、休み明けの学校へ,いとこ達に
買って貰った半ズボンと開襟シャツを着けて登校しましたら,途
端にハイカラーとか不良呼ばわりをされ、呆然としたのを覚えて
います。
本島の那覇市は、台北ほどにぎわっているとは、当時思いません
でしたが、3年も、小さく、静閑な石垣島の町で生活をしいてい
ると、当時の平和通りや国際通りはものすごく賑やかに感じまし
た。人々も活気に溢れ、通りの側の物売りのおばさん達には戦後
の生活のたくましさを感じました。また、通りの周辺は建築が盛
んでした。4階建てのビルの屋上に上り海側(私たちがポンポン
船で到着した泊の港のあるところ)を展望しますと、まだ原っぱ
が多く、所々に家が有る程度で,一号線(現在の)58号線)が飛
行場のように延々と続いていました。
一号線や国際通りを走る車は、外車(フォード、リンカーンなど)
が殆どで,日本車と言えば,ボンネットのあるバスでした。車はポ
ンコツでしたが,ダークグリーンのランニングで運転するアメリ
カ人の恰好良さは,今でも忘れることが有りません。一昨年、外
国の老人達が国際通りや平和通りを歩いてましたので、どこから
来たのか聞くと、昔、沖縄に転属になり,今は退役して,沖縄が懐
かしくなり,旅行しているとの事でありました。沖縄の変貌振りに
目を丸くしておりました。
この意味で,日本復帰は,間違いではなかったと思います。当時は,
アメリカの一州になろうとか、中国復帰も世間話として(真剣に
考えていた政治家もいたのではないか)聞きましたが、社会運動
のうねりは,基地全廃、全面無条件返還でした。中には,「基地の
ある日本帝国主義の基には還りたくない」という極少数意見もあ
りました。今、本を読み返してみますと,「日本帝国主義を通して
アメリカ帝国主義に組み込まれる事は間違いない」という意見は,
将にその通りでした。
琉球独立論を掲げる方もおりました。ただ、考えますと、琉球は
独立国時代も中国の属国として存立していたわけですから、政治
経済上、困難な事を琉球住民はよく知っていました。いろいろ考
えた上で,日本復帰は必然の出来事だったように思います。
記者との話は,尽きることを知りませんでした。昼頃から始まった
取材も,終わった頃はもう、夕暮れ時でした。
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